喫茶の歴史

中国

書籍に現れるものとしては、紀元前2世紀≪前漢≫の『爾雅』に見られる「檟」、または、司馬相如の『凡将篇』に見られる「荈詫≪セツタ≫」が最初とされる。漢代の『神農本草経』果菜部上品には次のような記述がある。

苦菜。一名荼草。一名選。味苦寒。生川谷。治五蔵邪気。厭穀。胃痹。久服安心益気。聡察少臥。軽身耐老。

陶弘景は注釈書『本草集注』の中でこれを茶のことと解した。これに対して顔師古は茶に疾病を治癒する薬効は認められないとしてこれを批判し、さらに唐代に編纂された『新修本草』も茶は木類であって菜類ではないと陶弘景の説を否定して苦菜を菊の仲間とした。このため、以後、苦菜をキク科やナス科の植物と考えて茶とは別物とする説が通説である。しかし、その一方で宋代の『紹興本草』などでは、苦菜≪と考えられたキク科やナス科の植物≫に『神農本草経』の記す薬効がないと指摘されている。このため、陶弘景の説を肯定する見解もある。

お茶イベント

現在の茶は、後漢の『僮約』に初めて述べられており、顧炎武は当時の四川省では茶で客をもてなしたことや、流通があったと推測している。四川省は茶のルーツとされる雲南省にほど近く、漢人はそことの接触により茶の存在を知ったと考えられる。ただし、雲南においては茶は多くの場合に草として調理され食べられるものであり、それを湯に入れてだし汁を飲むように改良したのは、煎じ薬の伝統を持つ漢人であろう。

喫茶文化は、四川省から長江を下って次第に広がり、魏晋南北朝時代には長江流域で楽しまれたとされる。さらに唐代では長江流域が大規模に開発され、その物資が大運河を通って華北にももたらされたことから、茶の栽培が盛んとなり、庶民の間にも広まった。長安・洛陽では喫茶店が立ち並んでいたという≪比屋之飲≫。あまりに広く流通したため、唐後期になると茶は政府の専売とされ、その税収は唐王朝を支えた。

その中にあって、初めて体系的に喫茶の技術や思想を記そうという試みが現れ、唐の陸羽≪? – 804年≫が『茶経』を著した。遣唐使などを通じて日本にも茶がもたらされたが、この時代の茶は団茶といって醗酵が不十分で硬くつき固めた茶であった≪もっとも、庶民は安価な葉茶を楽しんだと思われる≫。

団茶は五代から宋代にかけて、墨の発展を受けて、墨のように香料を錬りこみ、金模様を施した研膏茶に発達した。研膏茶は手間暇がかかることから高級茶とされ、皇帝にも献上された。そして、茶を試飲して産地や銘柄を当てる茶会の闘茶が開催された。また、国内においては専売を布き、国外においては大量の輸出を行って北宋以後の王朝の財政収入に貢献したとされる。

寺院、特に禅寺では修行中の眠気を払う目的から、茶が自家栽培され、栄西らがそれを日本に持ち帰り、日本の緑茶文化を始めたことは有名である。

また、宋代では陶磁器が発達したことから、茶器もまた発達を見た。僧院が集中していた天目山で使われていた茶器は「天目茶碗」として日本ではプレミアがついて取引されたが、中国ではそのような茶碗は泥臭いとされ、より繊細な青味がかった磁器が好まれた。

明代になると、洪武帝は民に負担のかかる研膏茶の献上を廃止したため、研膏茶は廃れ、代って手間のかからない散茶が盛んになった。葉を揉んで葉緑素を破壊して茶の出を良くし、蒸して酸化醗酵を止める製法が使われたが、その製法は江戸期に日本に伝えられ、抹茶に代わって日本茶の主流となった≪その後、中国では釜で煎って酸化を止める製法が主になる≫。

清代も後期になると、烏龍茶や紅茶のような半醗酵・全醗酵の茶が開発され、福建省を中心に生産された。そしてそこからイギリスなどに向けて輸出されたため、茶を表す閩南語の「テー」が英語に取り入れられ、teaとなった。そしてこの時代に「工夫茶」と呼ばれる中国喫茶文化が形作られて行った。

茶は北方や西方の周辺遊牧民族においても大いに需要があった。もとより当時は近代栄養学の知識はなかったが、特別に加工された種類の茶は、野菜をほとんど摂取しない当時の遊牧民にとって限られたビタミンCの補給源であった。これらの地では茶の生産が不可能であるため、中国との交易に依存していた。現在でもチベットやモンゴルの伝統的食生活では茶は欠かせないものである。

日本

茶がいつ日本に伝わったのかははっきりしていない。

茶は薬用として禅宗の修行に用いられていることから僧侶が関わっているとみられる。かつては栄西によってもたらされたのが最初と考えられていたが、最近の研究によればすでに奈良朝の頃伝来していた可能性が強い。ただし、古代に伝わった茶は纏茶≪てんちゃ≫であったと考えられる。また、空海≪806年に唐から種子を持ち帰り製法を伝えた≫や最澄も持ち帰り栽培したという記録がある。

『日本後紀』では、弘仁6年≪815年≫の嵯峨天皇の近江行幸の際、唐から帰朝した梵釈寺≪滋賀県大津市≫の僧永忠が茶を煎じて献上したと記されている。だが、平安時代に入って文化が、純和風に変わりつつあったと同時に、茶も次第に廃れていった。

茶の栽培は、栄西が中国から茶の苗木を持ち帰って九州の脊振山で栽培したのが再伝来とされている。当初は薬としての用法が主であった≪戦場で、現在の何倍も濃い濃度の抹茶を飲んで眠気を覚ましていた、等≫が、栽培が普及すると共に嗜好品として、再び飲まれるようになった。

一時≪貴族社会の平安時代の遊びとして≫中国のように闘茶が行われることもあったが、日本茶道の祖・南浦紹明により、中国より茶道具などと共に当時、径山寺などで盛んに行われていた茶会などの作法が伝わり、次第に場の華やかさより主人と客の精神的交流を重視した独自の茶の湯へと発展した。当初は武士など支配階級で行われた茶の湯だが、江戸時代に入ると庶民にも広がりをみせるようになる。煎茶が広く飲まれるようになったのもこの時期である。茶の湯は明治時代に茶道と改称され、ついには女性の礼儀作法の嗜みとなるまでに一般化した。

茶は江戸時代前期では贅沢品として、「慶安御触書」や「直江四季農戒書」でも戒められていたが、やがて有利な現金作物として生産が増えて大いに普及した。生産者にとっては現金収入となる一方で、金肥といわれた干鰯や油粕のような高窒素肥料を購入しなければならなかったので、生産地では農村への貨幣経済浸透を促した。

明治時代になって西洋文明が入ってくると、コーヒーと共に紅茶が持込まれて徐々に普及していくこととなる。昭和期に芸能マスコミの話題≪人気絶頂期のピンク・レディーが減量のためにウーロン茶を飲んでいると言ったこと≫から半発酵茶の烏龍茶が注目を集め、伊藤園やサントリーから缶入り烏龍茶が発売されると一般的な飲み物として定着した。また、この流行のため中国では烏龍茶が主であるかのようなイメージが広がった。缶入り烏龍茶の好評を受けて飲料メーカーは缶・ペットボトル入りの紅茶・日本茶を開発し、ひとつの市場を形成するに至った。また定常的に新しい茶製品が開発されている。

茶道は、その苦しい礼儀作法が敬遠される傾向が強まり、一般的な嗜みから、趣味人の芸道としての存在に回帰しつつある。その一方で、茶道を気軽に日常に取り入れる動きが根強く存在し、文化誌、婦人誌では、日本を含めた様々な茶の紹介、正式・略式・個人式の茶会の記事も繰り返し紹介されている。その中でも、緑茶のみならず、世界の茶が紹介されることが多い。旅茶セット、野点セットなど、趣味人だけではなく一般を対象とした入門商品が開発されている。

体にいいお茶探し

ヨーロッパ

ヨーロッパに茶が伝わったのは16- 17世紀。当初は緑茶が主流で抹茶も飲まれていた。18世紀には紅茶が広く愛用され、イギリスでは午後の喫茶の習慣が起こった。初期には熱すぎて飲めないということでカップの茶をソーサーに移し、冷ましてから飲むという習慣ができた。その後、大陸部ではコーヒーが入り、ヨーロッパ大陸の水が硬水でコーヒー向きだったことからイギリス以外では茶はコーヒーに取って代わられた。

イギリスに茶が入ってきた頃は、砂糖や新鮮な柑橘類は貴重品で、砂糖は薬とみなされていた。そのため、貴族や金持ちは財力を見せびらかすため、茶に砂糖を入れて飲んでいた。また、航海の最中には、船長などごく限られた人がレモンなどの柑橘類の果汁を入れた茶を飲み権威を示していた。一方、肉体労働者は、疲労回復のために茶にミルクを入れて飲んでいた。

紅茶が伝わった頃はイギリスでは一般庶民も貴族や上流階級の人々も1日2食が普通であった。また上流社会では夕食時間も夜7時から8時頃が主流であったため、当然正午過ぎから午後2時、3時頃に空腹を紛らわすために茶と簡単な軽食を摂るようになった。これがアフタヌーン・ティーの始まりとされる。

また、イギリスから植民地のアメリカに輸出された紅茶には高い植民地税が課せられており、これを不満とする市民が起こしたボストン茶会事件が原因でアメリカ独立戦争が起きてアメリカ合衆国誕生のきっかけとなり、加えて、アメリカ全土で紅茶ではなくコーヒーが愛飲される原因ともなった。